「人の心を読む」と聞いたとき、あなたはどんなイメージを抱くだろうか。
相手の表情の変化から気持ちを察したり、語られた言葉の裏にある本音を探ったり——
私たちは日々、言葉以上の何かに耳を澄ませようとしている。
だが、そうして読もうとする心は、本当に“その人の心”に近づいているのだろうか。
52歳のライター・篠崎早苗は、新聞記者として数々の事件や教育現場を取材する中で、
ある少年のひと言に心を揺さぶられたという。
「大人はぼくらの気持ちを分かったつもりでしかない」。
それは、どれだけ“分かろう”としても届かない壁の存在を突きつけるものだった。
以降、篠崎は「語られない本音」に向き合う姿勢を模索し続けることになる。
聞こえない声に耳を澄ます。
言葉の間に流れる沈黙に、心の揺らぎを読み取ろうとする。
この記事では、「人の心を読む」とはどういうことかを、改めて見つめ直していく。
共感とは何か。
想像するとはどういうことか。
そして、沈黙の中にこそ宿る“声”を、私たちはどう受け止められるのか。
篠崎早苗の歩みと視点を通して、心と心のあいだにある微かな気配をたどる旅が始まる。
言葉にならない「声」を聞くということ
沈黙が語る感情の存在
沈黙は、無意味な空白ではない。
誰かが言葉を飲み込んだとき、そこで止まった呼吸や視線の揺らぎには、
しばしば感情の核心が宿っている。
話し手が沈黙する瞬間、それは「何も言えない」苦しみかもしれないし、
「この場では語らない」と決めた覚悟かもしれない。
記者時代、篠崎が取材中にふと黙り込んだ高齢の女性の手の震えに気づいたことがあった。
その小さな震えが、語られなかった戦争体験の重さを雄弁に物語っていた。
「人は、本当に大事なことほど、言葉にできないものだと感じます」
そう語る篠崎の言葉には、沈黙に耳を澄まし続けてきた年月の重みがにじむ。
心理学の世界でも、沈黙は決して「何もない状態」ではなく、
「考えている」「感情を抱えている」「揺れている」ことの証として重視される。
ときに、沈黙は言葉以上に多くを語るのだ。
言葉よりも雄弁な非言語的メッセージ
言葉にならない「声」は、私たちの身体からも放たれている。
表情、目線、手の動き、座り方、そして声のトーン。
こうした非言語的な要素は、「ノンバーバル・コミュニケーション」と呼ばれ、
相手に与える印象や感情の伝達において、実は言葉以上に大きな役割を果たしている。
心理学者アルバート・メラビアンの研究によれば、
感情や態度を伝える際に言語が占める割合はわずか7%。
残り93%は、声の調子や身体言語によるものだとされる。
篠崎は、インタビュー中に相手の言葉だけでなく、
「語られた直後の沈黙」や「瞬きの速さ」、「手の位置」にも目を配るという。
「言葉が正直とは限らないけれど、体は嘘をつけないことがあるんです」
彼女のそんな姿勢は、語られた内容だけでなく、
語られなかった感情までもすくい取ろうとする、繊細な観察力の表れだ。
「話さない」ことが意味する抵抗と信頼
人はなぜ「話さない」のか。
その沈黙には、抵抗と信頼、相反する感情が重なっていることがある。
話すことで傷つけられるかもしれない、という防衛本能。
あるいは、話さなくても分かってくれるだろう、という静かな信頼。
カウンセリングの現場では、クライエントの沈黙が
「自分の中に降りていこうとする時間」として、尊重される。
篠崎もまた、話し手の沈黙を「待つこと」の大切さを何度も痛感してきたという。
「すぐに埋めてはいけない沈黙がある。
そこにこそ、その人の大事な気持ちが眠っているから」
沈黙とは、拒絶ではない。
むしろ、その場にとどまってくれているという、ある種の“対話”でもあるのだ。
心を「読もう」とする危うさ
取材現場での気づき:少年のひと言
新聞記者として働いていたある日、篠崎早苗は少年院を訪れた。
そこで出会った少年が、ぽつりと漏らした言葉がある。
「大人は、ぼくらの気持ちを分かったつもりでしかないんだよ」
その言葉は、鋭く、どこか哀しげだった。
取材を通じて“理解しよう”と努力してきたはずの彼女にとって、
まるで自分の取材姿勢そのものを見透かされたような気がした。
「私は本当に、彼の言葉に耳を傾けていたのか?
話す内容だけを“材料”のように扱ってはいなかったか?」
そんな問いが、心の奥から湧きあがってきた。
言葉を拾うことと、心を聴くことは違う。
その境界線を初めて突きつけられた瞬間だった。
決めつけが共感を妨げる瞬間
人は誰しも、「わかりたい」と願う。
だがその思いが強すぎると、つい自分の枠組みや経験に相手を当てはめてしまう。
それは、共感のように見えて、実は“決めつけ”になっていることがある。
「この人はきっと、こう思っているに違いない」
「言えないのは、こういう事情があるからだろう」
そんなふうに“読み”を入れた瞬間、
相手の本当の思いや沈黙に、耳をふさいでしまってはいないだろうか。
篠崎は語る。
「“読む”ことは時に、相手の沈黙に意味を押しつけてしまう。
本当に必要なのは、読むことより、“開けておく”ことなんです」
共感とは、理解の押しつけではない。
相手の語らない部分に、勝手な解釈を加えることでもない。
「わかるつもり」との距離感を保つ
人の心に近づこうとするとき、「わかるつもりでいない」ことは、とても大切だ。
篠崎が大切にしているのは、
「わからない」と正直に感じることを、怖がらないという姿勢。
その距離感が、かえって相手の沈黙を尊重し、
言葉にする勇気を引き出す空気を生む。
「この人は、わからないことを急いで決めつけない」
そう思ってもらえたとき、話し手の中にほんのわずかでも信頼が生まれる。
わからないまま、そばにいようとすること。
その“踏み込まなさ”が、時に最も深く心に触れるのかもしれない。
本音に寄り添う聞き方
聞き返すことの意味と力
人の話を「聞く」とは、単に沈黙せず耳を傾けることではない。
ときに、「もう一度、教えてもらえますか?」と尋ねること。
「あのとき、どう感じていましたか?」と掘り下げること。
篠崎早苗は、話し手の言葉を一度で理解したつもりにならず、
何度も丁寧に聞き返すことを大切にしている。
それは、内容を確認するためだけでなく、
「あなたの言葉を、私はちゃんと受け止めたい」という姿勢の表れでもある。
「一度で分かろうとしないこと。
その姿勢が、安心を生むこともあるんです」
聞き返すことは、相手の語る力を信じる行為。
そして、自分の理解の限界を素直に認める、謙虚な対話でもあるのだ。
対話の中で生まれる沈黙の価値
篠崎が何よりも大切にしているのは、沈黙を「流さない」こと。
対話の中にぽつりと現れる沈黙に、焦って次の質問をぶつけるのではなく、
その沈黙と一緒に、ただ静かにその場にいること。
「沈黙は、その人の心が自分自身に向かっている瞬間です。
だからこそ、急かさずに待つことが大切なんです」
取材でも、話し手がふと黙り込んだとき、
篠崎はノートを取る手を止めて、ただじっと目の前の空気を感じる。
その数秒後に、ぽつりとこぼれる言葉には、
何度も聞き返しても出てこなかった“本音”が込められていることがある。
沈黙は、対話の「欠落」ではなく「余白」だ。
そこにこそ、相手が心の奥底から伝えようとしているものが潜んでいる。
相手の世界に「想像」で寄り添う姿勢
理解しようとするだけでは、たどり着けない心がある。
篠崎は、「わかろう」とするより「想像し続けること」を選ぶ。
「この人は、どんな景色を見て、どんな時間を過ごしてきたのだろう」
その問いを胸に、相手の語る世界を一つひとつ、ゆっくりとたぐり寄せていく。
「想像する」とは、相手の靴を履いてその人生を歩くこと。
それは、勝手に決めつけることとは正反対の行為だ。
話し手の言葉をなぞるだけでは見えない感情。
沈黙の間に漂う、かすかな“揺らぎ”。
そこに想像を重ねることで、初めて本音に“寄り添う”ことができるのだ。
書くという行為で見えてくる心
行間に感情を滲ませる表現とは
篠崎早苗の文章には、静かな余韻がある。
声高に訴えるのではなく、そっと心に触れるような言葉の置き方。
それは、書き手自身が「わかろうとしすぎない」姿勢で向き合っているからこそ、生まれる文体だ。
「書く」という行為は、言葉を綴る作業であると同時に、
沈黙を言葉の間に織り込む作業でもある。
たとえば、ある取材記事で彼女は、ある母親が語った一言をこう結んでいる。
「……それでも、私は明日、また弁当を作ります」
その前に置かれた三点リーダ(…)は、母親の迷いや怒り、疲労、そして覚悟を、
すべて包み込む“沈黙”のように、読む者の心に残る。
「行間」とは、ただの空白ではない。
そこには、語られなかった感情や、声にできなかった揺らぎが、ひっそりと息づいている。
表面に現れない心の揺らぎの描き方
篠崎の書く文章には、「わかりやすさ」よりも「余白」がある。
誰かの言葉に、解釈や説明を付け加えすぎず、
そのまま読者に届けることで、むしろ読み手自身が想像を働かせる余地を残している。
「本当の感情は、語られた言葉の“裏”や“横”ににじむもの。
そこをどう言葉にするかが、書き手の勝負だと思っています」
ある女性が語った「大丈夫です」という一言に、
わずかに震える声が乗っていたとするなら、
篠崎はその震えごと、文章に滲ませようとする。
たとえばこんなふうに。
「『大丈夫です』。
声の端に、風のような揺らぎがあった」
それは事実の記録というより、心の“気配”の描写である。
「読む人の心に届ける」ための静けさ
篠崎が目指しているのは、「理解される」ための文章ではない。
むしろ、読む人が自分自身の感情とそっと向き合えるような、
そんな静けさを湛えた文章だ。
「書くことで相手の心が“見える”ようになることもありますが、
もっと大切なのは、“届く”ことだと思うんです」
読者の心に言葉が届くとき、それは“読み手の想像”を引き出す瞬間でもある。
だからこそ、彼女の文章には説明が少なく、断言も控えめだ。
その静けさの中に、読み手は自分自身の「沈黙」を見つけることができる。
書くことは、声にならない思いを編み直す作業。
読むことは、それをそっと受け取る行為。
篠崎の文章には、その両方が同時に存在している。
共感とは何か:想像し続ける勇気
「心を読もうとしない」という選択
「心を読もうとしない」
それは、一見すると他者との距離を保つ冷たい選択に映るかもしれない。
だが、篠崎早苗にとってそれは、もっとも深い形の“共感”に近づくための出発点だった。
「人の心は、そんなに簡単に読めるものじゃない。
だからこそ、“読もうとしない勇気”が必要なんです」
“わかろうとする”ことの裏には、「理解してしまいたい」「納得したい」という、
ある種の安心感を求める衝動が潜んでいる。
けれど、その衝動こそが、相手を自分の理解の枠に閉じ込めてしまうことがある。
心を“読まない”ことで残る余白。
そこには、相手の本音が息をするための、やわらかな空間がある。
想像力こそが真の理解への鍵
「想像すること」
篠崎が信じてきたのは、理解よりもその力だった。
「私たちは、他人の経験を完全には共有できない。
でも、想像することで“そばにいる”ことはできる」
たとえ言葉が届かなくても、
たとえ沈黙が続いても、
相手の内面にそっと寄り添う“想像”は、確かに存在しうる。
それは、安易に言葉を重ねることよりもはるかに難しく、
けれどもずっと誠実な態度でもある。
共感とは、相手の感情を知ることではなく、
その感情がどんなふうに生まれてきたのかを、想像し続ける営みなのだ。
著書『心を読もうとしない勇気』に込めた思い
篠崎の著書『心を読もうとしない勇気』(晶文社)は、
その信念を静かに綴った一冊だ。
読者からは、「人と向き合うのが少し怖くなくなった」
「沈黙に意味があることに初めて気づいた」といった感想が多く寄せられている。
本書の中で彼女はこう書いている。
「わからないままでいる勇気が、
本当のつながりを生むことがある」
語りすぎず、近づきすぎず。
けれども、決して目をそらさない。
その慎ましい姿勢こそが、
人と人とのあいだに、やさしい風を吹かせてくれるのかもしれない。
ありがとうございます。
それでは、最後のセクション「まとめ」を執筆いたします。
まとめ
人の心を読むとは、相手のすべてを理解することではない。
むしろ、「わからない」と正直に向き合い、
それでもなお、その沈黙に耳を澄ませる姿勢にこそ、
真の共感が宿るのではないだろうか。
篠崎早苗の取材と執筆の旅は、語られた言葉だけでなく、
語られなかった想いや、沈黙に込められた“声”をすくい取ろうとする歩みだった。
焦らず、急がず、決めつけず。
ただ、そこにいて、聞こうとし続けること。
その静かな行為が、心と心のあいだに、そっと橋を架けていく。
沈黙は、何も語らないのではない。
むしろ、たくさんのことを語っている。
私たちがそれを聞き取れるかどうかは、
相手を“読む”のではなく、“想像する力”にかかっている。
そしてその力は、誰にでもきっと、備わっている。
だから今日もまた——
聞こうとし続ける勇気を、私たちは持ち続けていたい。