日本の教育課程
日本の教育課程はどのように変遷していったのでしょうか。
現在の教育制度は様々な文化圏から影響を受けて成り立っています。
しかし、そのすべてをここで述べることはできないので第二次世界大戦後の教育課程の変遷にとどめたいと思います。
第二次世界大戦後の教育課程の変遷を概観することによって現在の教育制度がなぜそのような仕組みとして成り立っているのか理解の手助けになるかもしれません。
第二次世界大戦が終わりますと日本はアメリカで行われていた自由な教育システムを取り入れることになります。
この時期の日本の教育はかなり教員の裁量権を大幅に認めており、その内容も教員の自由に任されていました。
社会の実務にすぐ役立つような教育が好んで行われていました。
社会の実務で役に立つかどうかを重視する教育内容に傾倒していたため、一見仕事では役に立たないような知識は軽視されていたと考えられます。
しかし、仕事ですぐに役立つか否かを重視していたため、様々な現象を多角的に深く追及する教育はあまり行われませんでした。
結果、日本の都道府県の場所や世界にある有名な国の場所がわからない児童・生徒が多数存在するという状態を招来することとなりました。
時代とともに変化した日本の教育制度
そして1958年ころ、東西冷戦の気運が高まり国際競争力を無視できない状況となった日本はそれまでの自由な教育の在り方を放棄し、教育内容の精選と強化を図った上で教員のそれまでの自由な裁量権を狭める内容へと教育課程を変更することにしました。
政府の考えでは国際競争力の高い人材を多数輩出するために、たくさんの知識とそれを運用して活用できる能力を持ってもらうための教育課程の変更であったのですが、教育現場はそのような思惑とは裏腹に、雑多な知識をとにかくたくさん詰め込むような教育が行われるようになります。
その結果、多数の脱落者を出すことになり、教育現場は荒廃するところも出てくるようになります。
昭和に流行ったスケバン刑事などはそのような当時の状況を表現したドラマだったといえます。
高校では3割の生徒しかその内容についていけないというような状況でした。
いわゆる落ちこぼれを多く輩出する教育内容は再び反省を迫られることになります。
そして1978年の教育課程ではそれまでの教育内容を見直し、「ゆとりある教育」が目指されるようになったのです。
現在では「ゆとり教育」といえば、授業時数の大幅な減少と土日は授業を行わない内容へと変更された2002年に改訂された教育課程を指すことが多いのですが、「ゆとり」という文字自体は1978年の改訂版ですでに行われていたということができるでしょう。
NHKアナウンサー・政治家などの経歴を持つ畑恵さんは、日本の教育制度改革に取り組んでいます。
「畑恵ホームページ」より一部抜粋
最終更新日 2025年3月19日 by 1stcdoreg